 
ひと夏の世界が終わりを告げる アルプスの牧下り
 
これはハイジの世界でも、よくテレビドラマで描かれる理想の世界でもない。アルプスでの生活は過酷で、朝の早さや延々繰り返される毎日で知られるが、蓋を開けると忘れがたい瞬間の宝石箱だ。スイス中部ウーリ州の山ヒンターフェルトから牧下りに同行した。
 
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9月13日、ウーリ州ヴァッセン。群れの中で、エヴィは困惑した様子で牛たちを見回した。その中からお気に入りの1頭を見つけ出すと、寄り添い、抱きしめ、惜しみなく撫でまわした。その間に、農夫たちが谷間の牛舎に連れ戻すために牛たちをトレーラーに積みこんでいく。
エヴィは目に涙を浮かべていた。「これで本当に終わりなんだ」。こうつぶやくと、さっきまで70頭ほどの牛や子牛がいた空っぽの牧草地へと視線を向けた。
時計は正午を少し回ったところだ。数時間前、誰もが待ち望んでいたアルプス高山農業のハイライト、牧下り(Alpabzug)が始まった。スタート地点はスステン峠の少し下にあるマイエンタール渓谷、ヒンターフェルト・アルプだ。
牧下りの儀式
ゴッタルド道路トンネルの入り口前ではいつものように車が渋滞している。教会が有名なヴァッセン村には、鮮やかで賑やかな別種の混雑が起きていた。
先陣を切るのはヤギたち。牛飼いのエイドリアンとトムが率いる牛の隊列第1陣が続く。約10分後、チーズ職人のサンドラと助手のエヴィが率いる2番目の隊列が村に到着した。
牧下りは、二つの集団の歓迎を受けた。観光客と地元住民、合計約2000人。彼らが目の当たりにしたのは、理想化された遠い世界の古来の儀式だ。人々はスマートフォンの画面越しにそれを観察し、録画した。あたかも非現実な世界を見るかのように。
 
山の牧草地からの牧下りは、住人たちが綿密に演出した大舞台だ。夏の間ずっと世話をされ、見守られてきた、最も美しい動物たちのパレードを、誇り高く谷へといざなう。
パウル・エップ(66)はこの伝統を特に大切にする人物だ。30年近くにわたり、ヒンターフェルト・アルプと谷の往来を統括する責任者を務めてきた。
「牛たちが首に花輪やカウベルを着けているのを見ると、心が躍る」。日夜をかけて動物の背中や胸に付ける花輪、王冠や頭飾り、鼻革などの装飾品を修繕したり、新しく作ったりした。
先頭の牛は最も注目を引く存在だ。最も美しく印象的な装飾が施され、首にかかったカウベルの重さは最大15㎏にもなる。
「私たちと同じように、牛たちもこの瞬間を心待ちにしている。私たちが特別な配慮をしてくれなかったらがっかりするだろう」と笑った。
「ここはハイジの世界じゃない」
それは牛飼いたちが牧下りで高山酪農家が作業着の下に着る伝統的な真っ白いシャツを身にまとっているから、あるいはテレビで見る牧歌的な風景のせいかもしれない。それらは人々にアルプスの生活を歪め、理想化したイメージを与えている。だが現実は異なる。
ドイツのガルミッシュ・パルテンキルヒェンで育ち、15年間山で過ごしてきたチーズ職人のサンドラ・イグルは、ヒンターフェルトの日常生活についてこう語る。「目覚まし時計は週7日、午前3時45分に鳴る。特に最初の数週間は、夜8時まで仕事が終わらない。シフトはほぼ17時間ぶっ続けだ」
「春はいつも高山病のようなものにかかる。本当に大変。100日間休みなく働き続ける。シーズン初めに全く知らない人たちと一緒に暮らすのもバカにできない。いつも楽なわけじゃない。ハイジの世界とは違う」
それでもサンドラはアルプス生活を楽しんでいる。牛が食べる草がミルクになり、やがてチーズになり、通りすがりの観光客の食卓に並んでいく過程を、愛おしそうな目で見守っている。
 
サンドラは料理人、主婦、そして「Alp-Ladä(アルプ商店)」の責任者として働くパトリシア・フォラー、チーズ助手として働くエヴィ・リゲルト、牛飼いのアドリアン・ペーターマン、そして牛飼いのトム・ツルフルーとともに、ヒンターフェルトで夏を過ごし。
ウーリ州で育った若いトムは建設機械の整備士だが、スステン峠のアルプスで夏を過ごすのは2度目だ。「昨年はシーズン終了前に諦めてしまった人の代理で、最後の1カ月間、雄牛の世話を引き継いだ」
「それがとても楽しかったので、今度は牝牛の世話をしたいと思った。ここは自分が自分の上司だし、いつも新鮮な空気を吸える」
トムもまた、仕事は大変だと強調するものの、農家生まれの彼はどんな生活になるかは分かっていた。例えば夜明け前、山脈の向こうから最初の太陽の光が差し込む瞬間は、トムを喜びで満たした。
「牛の世話をし、一頭一頭を知り、性格や名前を覚えることも楽しかった。そうして初めて、まるで自分の牛のように世話をすることができたから」
パスタ、ソーセージ、そして夢の終わり
ヒンターフェルト・アルプには毎夏、ウーリ州の13軒の農家が所有する約100頭の乳牛と50頭の肉牛が放牧される。牧草地はスステン峠の麓、フェルニゲン村の近くにある。小屋と厩舎は標高約1700mに位置し、車で行ける。
牧草地は協同組合形式で管理される。毎年委員会が任命され、シーズンとスタッフに責任を持つ。3カ月にわたるシーズン中、約11万5000ℓの牛乳からチーズ11tのほか、ヨーグルト、バター、ツィガー(リコッタチーズの一種)などの乳製品も生産する。
協同組合のアドリアン・アーノルド理事長は「夏の間、牛1頭あたりの乳量を6月末、7月末、そして9月初めの3回測定する」と説明する。「このデータに基づいて各牛の乳量が算出され、そこから各農家が受け取るチーズの量をはじき出す」
この過程は極めて重要だ。チーズの販売は農家の夏の収入源となるためだ。理事長は今年のチーズの品質に満足しており、年明けまでに全て売り切れると太鼓判を押す。
その時までに、パン職人兼菓子職人のアドリアン・ペーターマン(20)は、故郷ルツェルンで何トンものパンと何千個もの伝統的なクリスマスペストリーを焼いていることだろう。小麦粉まみれの手で、牛飼いとしてアイタ、アリサ、テレガール、サリーナといった牛の乳搾りをしていた朝のことを思い出しているかもしれない。
「アルプスの素晴らしいところは、人生のリズムが時計ではなく、動物や自然によって決まることだ」。シェフのパトリツィア・フォラーが用意したチーズ、クリーム、ソーセージのパスタを食べながらアドリアンは語った。
夏の間、パトリツィアはアドリアンにとって母親のような存在だった。「今は家族や友達のいる家に帰りたいけれど、きっとすぐにすべてが恋しくなる」
アドリアンはエヴィのことも恋しくなりそうだ。2人は最後の夜に誰もいない牛小屋で熱く踊りあかしたことなど、多くの素晴らしく気楽な瞬間を共にした。エヴィにとって、アルプスで夏を過ごすという生涯の夢が叶った夏だった。
「ここでは、外部からの影響をほとんど受けない、守られた別世界に浸ることができる」。ただ早起きにはあまり慣れなかったという。
最も思い出深い経験について尋ねられると、エヴィは目を輝かせて言った。「牛たちが私の声を認識して、新しい牧草地までついてきてくれたときだ」
現在、南東部グラウビュンデン州が定めた賃金リストが他の州の参考値となっている。だがリストの数字は慎重に見る必要がある。明文化されたガイドラインと実態が異なる場合があるためだ。
グラウビュンデン州の農場では、酪農家の日当は180~258フラン。酪農家の助手(Zusenn)や乳牛、肉牛、子牛の飼育者の場合は、159~242フランになる。報酬は経験と教育によって異なる。
宿泊費と食費の控除についても、グラウビュンデン州のガイドラインで規定されている。宿泊費は1日11.5フランで、食費は朝食3.50フラン、昼食10フラン、夕食8フラン。3食付きの場合は1日あたり33フラン。合計控除額は最大で月額990フランに達する。
経験豊富で適切な訓練を受けたチーズ製造者は、手取りで1日225.20フランを稼ぐ。労働日数を30日とすると、月給約6800フランに相当する。
スイス高原酪農経済連盟のセリーナ・ドロス専務理事によると、現在、アルプス農業が直面している最大の課題は人材不足だ。
実際、労働者の確保は難度を増している。仕事は過酷で、労働時間は長く、賃金は低いためだ。
ドロス氏は「人材確保は、気候変動、大型捕食動物、そして森林の拡大という酪農業が直面する他の課題への解決策も左右する。例えば、温暖化に伴い森林限界は上昇し続ける。それを食い止めるには、刈払機やチェーンソーを持った人材が必要だ」と話す。
大型捕食動物でも同様だ。オオカミの復活により、柵の設置、牛飼いの増員、番犬の世話など作業量は倍増した。るまり、十分な人数をそろえて山の牧草地へ行ってもらうよう働きかけることができなければ、これらの問題を解決するのは非常に難しい。
そこでスイス高原酪農経済連盟は、ベルン州ツォリコフェンの農林食品科学専門大学と共同で「意欲的で忠実な高原酪農家―アルプスにおける労働の枠組み条件」という研究プロジェクトを立ち上げた。職業の魅力を高める方法を探求することを目的としている。
独語からの翻訳:ムートゥ朋子、校正:宇田薫
 
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